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『ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード』

 「ジュルナル・デ・ダム・エ・デ・モード」は1797年にパリで創刊されたモード誌であり、美しいファッション・プレートが挿入されている。5日毎に発行されており、1839年の終刊までの全てを製本した83巻が本学に所蔵されている。ジョンゲ子爵の蔵書をポザ公爵が買い取り補充したものという。ファッション・プレートとはファッション情報の伝達媒体として手彩色された版画をさす。それ以前、パリのモードは流行の髪型に結ったファッション・ドールに託され、各国へ届けられていた。続く19世紀はヨーロッパにおけるモード誌の全盛期であり、そのスタイルの確立に大きくかかわった先駆的な雑誌として知られている。記事内容は、社交界や舞台芸術に関するものから社会問題まで多岐にわたり、当時のモードの変遷とともに、社会的背景を読み取ることができる貴重な資料である。全てが揃っているという点も特筆に値する。
 ファッション・プレートの枠外上部には「Costume Parisien」のタイトルが、下部には、服飾の特徴を示すキャプションが書かれている。例えば、図1では「ビロードの帽子とラシャ地のルダンゴット(丈の長いコート)」とのキャプションが入り、被り物や素材などがごく簡単に説明されている。右上の数字は通し番号で、総数3,725枚にも及び、男性のモードや図2のように帽子だけが描かれた図版もみられる。ときには、原画となる水彩画と見開きに並べられており、ほとんどが当時人気の服飾画家たちによるものである。淡く彩色された美麗な図に夢の世界へ誘われ、いつの時代も、ファッション情報は女性にとって魅力的であると窺わせる。

 初期のファッション・プレートに一様に描かれているのは、図3・4にみられるような裾を引く白いハイウエストの古代風ローブである。フランス革命直後にあたり、服飾史上、最も絢爛豪華といえるロココの衣裳から脱却し、虚飾を一掃した簡素なギリシャ調の服飾に革命の思想をみてとれる。同時に、それまで長い間女性を締め付けたコルセットやスカートを膨らませる巨大なパニエが捨て去られ、素材も、綿モスリンが絹織物に取って代わった。透き通るような薄手のモスリンはイギリス産業革命の所産である。
 しかし、モスリンではヨーロッパの冬の寒さは耐えがたく、多くの女性が肺炎で命を落とし、モスリン病と称されたという。そこで、防寒用に図1のようなルダンゴット、丈の短いスペンサージャケット(図5)やショールが流行した。特に、ナポレオン軍がエジプト遠征の土産として持ち帰ったとされるカシミア・ショールは、実用性に加えその美しさから女性たちを魅了した(図6)。

 ナポレオン1世の時代には、女性の服飾に軍服の影響がみられたことも興味深い。図7のギャザーが数段に入ったマムルーク袖はその一例であり、エジプト騎兵からもたらされたという。この頃にはスカート丈が短くなり、同じハイウエストでも古代風ローブとは趣の異なった重厚な印象となる。
 やがて、スカートが広がりをもち始め、装飾が多くなり(図8・9)、この後の時代を風靡したロマン主義の兆候がみられる。1820年代半ばには、図10のようにウエスト位置が正常に戻り、コルセットが復活する。

 1830年代にかけては、釣鐘型のスカートにリボンやレースなどの優美な装飾、ドロップショルダーの膨らんだ袖、大きな胸元のデコルテなど、典型的なロマンティックスタイルとなる(図11・12)。繊細で高価なレースは、産業革命の機械化生産により多少手に入れやすくなり、ふんだんに使われたドレスや、その他に豪華な毛皮などもみられる(図13・14)。これらのスタイルにさらに彩りを添えたのは特徴的な髪型で、頭頂部を高く結い上げ、両サイドには縦長にカールした髪を垂らし、羽根や造花などが華やかに飾られた。この頃から、ファッションの担い手は貴族階級からブルジョワジーへと次第に移行していくのであるが、コルセットの復活により革命以前と同様、細いウエスト崇拝に女性達は再び締め付けられるようになるのである。

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