歴史

1919年(大正8年)~

学園の沿革

1919年
(大正8年)
安宅彌吉
当時住吉村に在住した関西財界人たちの手で創立された「財団法人甲南学園私立甲南中学校」の創立委員会席上において、同じく住吉村在住の財界人で創立委員の一人でもあった安宅商会社長・安宅彌吉が女子教育の必要性を訴え、女学校の設立を主唱。
1920年
(大正9年)
小森慶助
「官立にはない自由な校風の私立の女学校」をめざし、甲南高等女学校を設立。校長人事に手が回らず、初代校長には甲南中学校長の小森慶助が兼任。校舎もまだ無く、甲南幼稚園の2教室を借用して開校。
1921年
(大正10年)
田辺貞吉
「財団法人甲南学園甲南高等女学校」設立認可
初代理事長は住吉村の年長者であり、甲南中学校、甲南小学校・幼稚園の理事長でもある田辺貞吉が就任。創立者・安宅彌吉は会計係を担当。
校舎本館
11月27日、本山村字田中に校舎本館落成。同日を創立記念日とするのはこれが由縁。
1923年
(大正12年)
今西嘉蔵
小森慶助の辞任に伴い「専任校長が見つかるまで」との約束で第2代校長に三田中学校長・今西嘉蔵が兼任で就任。
表甚六
第3代にして初代専任校長となる表甚六が就任。以降在任23年、学園の教育精神の基礎を築いていく。
1924年
(大正13年)
制服制定
制服制定。セーラー服と決めたが形は決めなかったので生徒は各自の判断で色々なものを着た。徐々に形を統一し現在の形に落ち着いたのは昭和10年代。
1925年
(大正14年)
校友会を組織。会長は校長で、顧問は教師。学芸部・音楽部・園芸部・運動部・庶務会計部からスタート。戦後はその発展した形といえる生徒会に「和光会」と命名。
1926年
(大正15年)
田辺貞吉が死去。安宅彌吉が第2代理事長に就任、会計係を兼ね、以降20年に渡って学園を支える。
同窓会を組織。会誌を『清友』とする。
和光
校友会機関紙『和光』創刊。
1927年
(昭和2年)
自学創造教育
新学習法「自学創造教育」を開始。
校歌制定。第一校歌の一番の歌詞は明治天皇御製一首「まこと」
家政科設置。高女5年生卒業後の希望者を受入れ。定員20名。翌3年には研究科と改称。
1929年
(昭和4年)
校旗
校旗制定。この際の校旗は同窓会からの寄贈。
1930年
(昭和5年)
創立10周年記念式典挙行。
1937年
(昭和12年)
後援会成立。初代会長は朝日新聞社社長の村山長挙氏。
1938年
(昭和13年)
阪神大水害
阪神大水害発生。校舎埋没。登校していた生徒は表校長の判断により校舎内に留まったため、奇跡的に被害者はいなかった。校地北側の国鉄線で急行が立ち往生し、乗客が校内に避難、生徒・職員がこれを助けた。当時の様子は谷崎潤一郎『細雪』に詳述がある。
1940年
(昭和15年)
水害で堆積した土砂をもって築山にし桜を植え「和光園」と称した。
1941年
(昭和16年)
文部省の指示により「校友会」の組織が全国的に廃止。和光誌の母体である自治組織も終焉し「報国団」を組織。
1942年
(昭和17年)
旧制専攻科設置、発足。家事科・裁縫科を重点に、修身・国語・家政・理科・法制経済・商業簿記の7科目のカリキュラムを持つ。修業年限2年。
1944年
(昭和19年)
都市疎開始まる。学徒勤労令公布。動員につぐ動員で、専攻科で退学者続出。表校長も「生徒の品位が日に日に下落して行く」と憂いた。
1945年
(昭和20年)
戦時教育令公布。近代教育は完全に停止。
6月5日 神戸大空襲により全校舎焼失。
9月 芦屋の仏教会館1階ホールを借り授業再開。月~金で毎日一学年ずつ授業し、土曜は焼け跡整理。その後打出の公会堂2階の講堂も借用。
池田多助
表の後任に、広島高等師範学校第一回卒業生で表と同期の、兵庫県立神戸第1中学校長・池田多助が就任。焼け跡に立って「学校は焼けたが甲南精神は焼けていない」と就任挨拶。
1946年
(昭和21年)
生徒自治会復活「和光会」と命名。
坂田幹太
第3代理事長に坂田幹太。会計は上田要が担当。
第1回バザー
第1校舎建設前金捻出のため、同窓会が主催で第1回バザー開催。以降2回までは同窓会主催、3回は母の会(育友会の前身)と同窓会の共催、4回以降育友会主催で同窓会がこれに協力の形をとる。
1947年
(昭和22年)
教育基本法公布。男女共学の法制化。いわゆる6・3・3・4制の法制化。
甲南女子中学校併設認可。高等女学校1・2・3年が新制中学校1・2・3年に切り換え、義務教育となる。
理事会・保護者会・維持会の連合会開催。理事会・後援会・維持会・同窓会で復興会を組織。
池田校長
第1校舎竣工。
(写真は完成を前にして自らペンキを塗る池田校長)
後援会の主唱で「母の会」結成、同年第3回バザーを同窓会と共催。
上田要
代表理事に上田要就任。
1948年
(昭和23年)
育友会(PTA)結成、母の会は発展的解消。
新制高校設立認可。
財団名を「財団法人甲南学園甲南高等女学校」から「財団法人甲南女子学園」に変更。
1949年
(昭和24年)
阿部孝次
4代理事長に阿部孝次郎就任。
3月刊の和光5号に表前校長が特に一文を寄せ「和光」の意義を説く。
1950年
(昭和25年)
新制専攻科(家政科・英文科)開設。なお英文科は入学者なく第3回生で中止。家政科第4回生で廃止し、短期大学に引き継ぐ。
創立30周年記念式典にあたり、池田校長が「形式より精神が大切」と「精神復興」を強調。「本校の教育方針」として全人教育、個性尊重、自学創造の学風、精神教育、科学教育の振興、外国語教育と世界精神の強調、の6点を示す。
1951年
(昭和26年)
財団法人から学校法人に切り換え。昭和22年の学校教育法及び昭和24年の私立学校法の定めによる。
4月から、高校1年3学級編成(1学級45名)。
生徒による短大設置の署名活動が始まる。
生徒の手で「私達の約束」を作成。学校という社会の秩序を保ち、甲南精神を実現していくのに必要な事項を集約したもの。
1952年
(昭和27年)
中学校1年3学級編成(1学級45名)。
1954年
(昭和29年)
父兄アンケートで大多数が短大設置を希望、理事会も設置を決定。
甲南の道
「甲南精神」を知らせるため、創立30周年誌から抜粋し、一部原稿を追加して『甲南の道』(後の学生要覧)を刊行。
第1回甲南3学園音楽会開催(サンケイホール)。