創立者:安宅彌吉

甲南女子学園創立者 安宅彌吉

  • 学校法人甲南女子学園 創立者 安宅彌吉(あたか やきち)
    学校法人甲南女子学園
    創立者
    安宅 彌吉
    (あたか やきち)
  • 大正14年卒業記念。最前列左から5番目が安宅理事長
    大正14年卒業記念。
    最前列左から5番目が
    安宅理事長

学校法人甲南女子学園の創立者である安宅彌吉は、石川県金沢市金石生まれの実業家です。東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業、同じ金石生まれの海の豪商と云われた銭屋五兵衛にあこがれ貿易商の道を歩み、戦後の十大総合商社の一角を成した安宅産業を一代で築きました。

また、大阪商業会議所会頭、貴族院議員の要職を務め、激動の明治、大正、昭和にかけて実業界に大きな足跡を残しました。そうした経済人としての活躍にとどまらず、終生の友人として親交の深かった、同郷の宗教哲学者であり世界的な禅思想家の鈴木大拙に対して、研究や出版活動の援助を行いました。郷土である石川県、金沢市の青年たちへの奨学金(安宅育英資金)や神社、仏閣への多額の寄進など、地域貢献にも力を尽くしました。

甲南女子学園の創立にあたっては、新しい時代にふさわしい女子教育のために、官立にない自由な校風の私立の女学校という理想を掲げました。当時官立校は教育方針が画一的であり、多くの定員数が求められていました。豊かな知性と教養を持ち、品格を備えた女性を育てるには、教員と生徒が相互に交流できる少人数でないと、個性を尊重し、自ら創造して学ぶ教育は行えないという考え方をもっていました。

個性を尊重し、自ら創造して学ぶ教育という理念は、今も甲南女子学園に連綿と受け継がれています。

安宅彌吉の年表

年号 年齢 できごと
1873年
(明治6年)
0歳 4月25日、又吉の第7子として上金石町で生まれる。
    金石小学校に入学。
1886年
(明治19年)
13歳 石川県専門学校に入学。
1888年
(明治21年)
15歳 第四高等中学校に入学。
1889年
(明治22年)
16歳 東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学。
1892年
(明治25年)
19歳 石川県出身者の寄宿舎である「久徴館」に在館。この頃、鈴木大拙と知り合う。
1895年
(明治28年)
22歳 大阪の貿易商、日下部商店に就職。香港支店の責任者となる。
1904年
(明治37年)
31歳 大阪で「安宅商会」を創業。
1906年
(明治39年)
33歳 地元・金石の学生のために給費学生制度を設ける。
1918年
(大正7年)
45歳 「学校法人 甲南高等学校」の設立に参画。理事に就任する。
1919年
(大正8年)
46歳 「安宅商会」を「株式会社 安宅商会」に改組。社長に就任する。
1920年
(大正9年)
47歳 「学校法人 甲南高等女学校(現・甲南女子学園)」の設立に参画。理事に就任する。紺綬褒章受章。
1926年
(大正15年)
53歳 甲南高等女学校の理事長に就任する。
1935年
(昭和10年)
62歳 大阪商工会議所の会頭に就任する。
1936年
(昭和11年)
63歳 日本商工会議所の副会頭に就任する。
1939年
(昭和14年)
66歳 勅撰により貴族院議員となる。
1940年
(昭和15年)
67歳 勲四等瑞宝章を賜る。
1942年
(昭和17年)
69歳 安宅商会の社長を退任し、相談役となる。次男・重雄が社長に就任する。
1943年
(昭和18年)
70歳 「安宅商会」から「安宅産業」に社名を変更する。
1949年
(昭和24年)
76歳 2月5日、京都の自宅で死去。

金沢ふるさと偉人館HPより
https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/14ataka_history.html

鈴木大拙による碑文

  • 鈴木大拙による碑文
  • 鈴木大拙による碑文

安宅彌吉君は金石の生、近代日本が育てた大實実業家の一人である。君は郷人銭屋五兵衛の跡を逐ふて貿易界に投じ、既に確乎たる地歩を占めてゐた巨頭達を向こふに廻し孤軍奮闘終に自家立脚の地を固めた武者振りは實に目覚しかった。併し君の大なるところは主として育英に留意した点にある。百年の計は人を作るにありと言ふが、君は此に見る所があった。君の創設に係る安宅産業株式会社の戦後益、共力を充實して行くのも亦君の餘徳に由るのだ。

君は又祖先を尊び、宗教心に深く早くから修禅に励んだ。晩年よく言った「わしは眞も禅もわからぬが、わしに一種の人生観がある「しまった哲学」とでも言ふべきか、過ぎたるは追わぬ、心残さず捨て行く、そして先へと進む」と。自安居士の面目を此に見るべきだ。今日欧米人の間に。佛教殊に前に對する関心の高まり行くのを見て、自分は君の後援の多大を憶ふ。併し君には又多感な詩人性があった。智と意は事業に必要だが、人間としては情感がなくてはならぬ。君が多面に渉って郷土愛を發揮したのもその人間性の流出だ。これ郷人の君を慕ふて止まざる所以。晩年に至って益、圓満の相好を加へたにも、その然るべきものがあったのだ。

君は東京高等商業学校の出身。昭和二十四年二月五日京都にて没す。年七十七。金石の本龍寺 西宮の海清寺 鎌倉の東慶寺に分骨する。

昭和三十二年初夏 紐育にて
辱知 八十ハ才 鈴木大拙記 正木外雄書

大野湊神社(金沢) 頌徳碑より
https://oonominato.or.jp/

安宅彌吉の墓

現在、安宅彌吉の墓は、金沢の本龍寺と鎌倉の東慶寺にあります。
(西宮 海清寺の墓は阪神・淡路大震災にて倒壊。それを機に墓じまいされた。)

  • 鎌倉 東慶寺 鈴木大拙の横に配された安宅彌吉夫妻の墓
    鎌倉 東慶寺 鈴木大拙の横に配された安宅彌吉夫妻の墓
    https://tokeiji.com/
  • 金沢 本龍寺 安宅彌吉の墓
    金沢 本龍寺 安宅彌吉の墓

関連リンク